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nosé & hamasaki

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野瀬あつ子

 

東京生まれ。美大でイラストを学び卒業。デザイン事務所を経て、著名スタイリスト兼衣裳デザイナーのアシスタント。3年ほどの修行後に独立。数多くのCMや広告グラフィックでのスタイリングに関わる他、シンガーソングライター、ミュージシャン、舞踏家などの衣裳も制作。出産を機にツアーなどの仕事から離れ、別事業で温めていた子供服ブランドの運営へとレーンチェンジ。オリジナル制作に集中させるべくアロハロハ・ジャパン設立。パリのメゾン・エ・オブジェ、上海のCBMEなど海外展示会経験も積む。

Episode: 呉服屋の二女として育ち、ワビサビな色彩感覚を磨く。小学生でイラストレーターを夢見る。普通高校途中で美術への欲望が芽生え、美大入学。当時の短大と専攻科の合わせて3年間、絵心を学ぶ。卒業後はイラスト売り込みをしつつ、デザイン事務所でもお世話になる日々。ひょんなことからアーティストのアシスタント募集に遭遇。作品持って面接に行くが、その先生が超有名スタイリスト兼衣裳デザイナーだったことをそこで初めて知る。予想とは少し違っていたが無事合格。それからの毎日たるや、スーパー巨匠フォトグラファー、CMディレクター、アートディレクターとの百戦錬磨。夜鍋でコスチュームやオブジェを制作後、事務所に置いてあった発泡スチロールの上で寝ることもしばしば。それはそれは濃厚なクリエイティブ経験をさせていただく。運命の出会い?はそのアシスタント仕事で知り合った当時アートディレクターのはまさきてつじとのロケ仕事。アメリカの有名女優を起用したオーディオ広告。ロケ先ロサンゼルスでのCM・グラフィック撮影。22歳後半での初海外出張。フォトグラファーもワードローブもグリップも現地アメリカ人。訳分からずのトラブルを協力してなんとか乗り切ったのがきっかけでした。振り返れば、その時からの戦友なのかもしれません。結婚とともに共同デザイン事務所となり、可愛いオリジナルを作る目的で子供服事業にも着手。中でも、実店舗時代にご家族の幸せオーラを感じ取ったベビーアイテムを愛し特化させ、現在に至る。料理の腕は上がってきたと思うけど、映画監督志望の26歳長女、同じ学舎の美大生20歳二女に、何かと小馬鹿にされるこの頃です。

はまさきてつじ

 

福岡生まれ。地元高校大学デザイン科卒。東京銀座の老舗広告プロダクションで0年間修行。独立後も含めると、自動車、カメラ、コンピュータ、百貨店、化粧品、ファッション、酒、ベビー用品、など多種多様なクライアント様と向き合い​、その後に役立つ企画力や撮影スキルを高められた年月。しかしながら​デジタル化による紙媒体縮小の前に、目標をなくしてしまい業界離脱。別事業で伸び盛りだった子供服ブランドALOHALOHAを守るべく準備開始。心機一転してアロハロハ・ジャパンを共同設立。

Episode: 駄菓子屋の二男として育ち、キッチュな色彩感覚を磨く。小学生でカーデザイナーを夢見る。普通の勉強に興味なく、地元高校デザイン科に入学。多感な時期なのでデザインの基礎をみるみる吸収。経済的理由で東京進学は断念。そのまま福岡で4年間のデザイン学おさらい。ひょんなことから東京銀座の老舗広告プロダクション新人募集を紹介され、B全パネル抱えて新幹線で上京。リクルートスーツ着て実技試験、面接。休憩中に、隣の女子が私服姿でアイスクリーム頬張る姿見て落ち込む。が、見事、単独合格の通知が実家に届いてビックリ。ほぼ1か月後の春に入社。2年のアシスタント優良業務が認められ、社内1本立ち。数々の上場企業の広告企画デザインや海外ロケで経験をいっぱい積ませていただく。ぴったり10年間の奉公の末、独立。バブルの余韻で、その後も多種多様な企業の広告やカタログにたずさわる。だが、10年しないうちから、水面下でデジタル化の波が。作業PC化自体はどうということなかったが、媒体までもデジタルに移行していく様は寂しい限り。かつてのレコードジャケトがCDに変わり衰退したように、晴れの舞台だった駅張りB倍ポスターも新聞15段も消え始める始末。別で始めた子供服事ALOHALOHA は伸び盛り。悩む。クリエイティビティの面白さも伸びしろもなくなってきた受注デザインをこのまま続ける必要があるのか。今なら別のことでやり直しが効くのではないか。決断。50歳で区切りをつけ、デザイン事務所のチームを解散させて業界離脱。オリジナル制作だけでの成り立ち目指して試行錯誤、現在に至る。6歳のミックス犬がストレス緩和に貢献中。

 よろしくお願いいたします。
🙇‍♀️🙇‍♂️
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